2018/06/19

クルーズ旅

皆さん、おはようございます。今日は待ちに待った出発の日がついに来ました。マジェスティック・プリンセスで、どんな出逢いがあるか、そして沖縄と石垣で何をするか、楽しみにしております。また土曜日にご報告致しますから、少々お待ち下さい!

今年一月八日2018台北国際冬季旅展で、小琉球二泊三日の旅とマジェスティック・プリンセスの五日クルーズ旅を注文した以来、ずっと心がわくわくしてます。一月二十四日から日本語読書会の仲間三人とのんびりした三日間の小琉球旅はまた楽しい思い出がいっぱい頭に残っています。島から島へ、一月台湾の小琉球から、六月本番の琉球王国へ足を伸ばすのは目の前です。

旅行かばんが二つ持った私に、「留学ですか」と主人が聞きました。「旅する人だったら、かばんが一つ、留学する人だったら、かばんが二つ」と言い続けました。そうですねぇ!勉強好きな私は乗船して、一番行きたい所はクルーズの図書館です。

今週皆さんと一緒にお読みしたいNHKやさしいニュースは6月15日17時10分『「民泊」の新しい法律が15日から始まる』というニュースです。民泊を紹介する世界で最も大きな「エアビーアンドビー」というウェブサイトでは、今年3月日本の民泊を6万件ぐらい紹介して(世界ランキングの一番目は東京、三番目は大阪)、今月8日までに申し込みがあった民泊は、日本全部で2700件だけでしたが、新しい「民泊」の法律が今月15日に始まり、民泊の仕事をするためには役所に申し込まなければなりません。法律を守らないと、お金を払うなどの罰があります。ただ一週間の申し込み期限が民泊業者にとって、かなり大変だと私は思います。

民泊業者は今まで申し込みが少ない原因がいろいろあります、民泊の客と近所に住んでいる人がトラブルになる心配とか、民泊を禁止しているマンションとかなどです。グローバル社会になるにつれて、世界の人々はシェアリングネットワークという共有意識が強い今は自転車(台湾YouBikeレンタサイクルサービス)を始め、自動車(ウーバー)、そして、宿泊もその一環になりました。旅行に日本行くる外国人が民泊を利用できるため、なんどかソリューションを設けたほうがいいです。

私は初めて「エアビーアンドビー」を利用したのは、去年カナダのバンクーバで行われたトーストマスターズ大会に参加する際に、十人の台湾人トーストマスターズ仲間と一緒に大きくて綺麗な民泊に一週間も泊まりました。地元の一員として、バンクーバ住民と一緒に住む感じをしました。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の時に、日本の「エアビーアンドビー」を一応試したいですけど。

六月十五日(金曜日)曇り。午前中、日本語読書会の仲間四人とフーターズで、昼食をしました。端午節句の連休が直前なので、普通閑古鳥が鳴く金曜日より、ほぼ満席で、とても賑やかでした。食事のあと、日本台湾交流協会へ行って、日本映画上映会『宮城からの報告』を見ました。『宮城からの報告』が五本もあります。午後は、一本目の『津波のあとの時間割』を見ました。字幕がないので、チンプンカンプンでしたが、石巻市にある門脇小学校の小学生と教職員が地震と津波のあと、一年間の時間割を忠実に記録されました。二時間の間、小学生と教職員の色んな考えと思いを見せて頂き、胸いっぱいでした。一番印象的なエピソードは、八月に行われた門脇小学校と門脇中学校の合同運動会のこと、孫との授業、小学生から新しい門脇町と南浜町作りの提案など、ほんとうに勉強になりました。

正直に言うと、二時間の『津波のあとの時間割』を見てから、心が悲しくて堪らなくて、もし夜の映画を先約しなかったら、すぐ家に帰りたかったんですが、気分転換のために、日本語読書会の仲間と、日本台湾交流協会の近くにある街角の焼き肉饅頭屋で、美味しい饅頭を食べながら、映画の感想を分かち合ってから、つらい気持ちを晴れてきました。

夜、五本目の『3月11日を生きて』は門脇小学校の小学生と教職員が3月11日午後2時46分に東日本大震災が起こって、かねてより日和山の全校避難の経緯をインタビューされた記事でした。校長先生を始め、教職員は必死に生徒を守って、裏山に登らせて、そして激しい地震の様子と恐ろしい津波の音をまざまざと心に浮かべて、とても感心された映画でした。中国字幕があったし、それに午後の映画も見たし、とても楽に分かりやすい映画を見せました。よかったです。

1873年(明治6年)創立された門脇小学校は地震、津波、火災があっても、適切な避難が出来て、既に下校していた生徒のうち7名が死亡した、過半数の生徒が死亡した石巻市立大川小学校とは対照的でしたが、日本大震災により門脇小学校学区内の人口が減少し、今後も人口増加が見込めないため、2015年をもって門脇小学校を閉校し、石巻小学校と統合することとなりました。

残した三本の『宮城からの報告』を見るか見ないか、実はまだ決まってないです。私は年を取るに連れて、パニック映画に苦手になりましたが、せっかくのチャンスですから、やはり張り切って、一挙に五本の『宮城からの報告』を見た方がいいと思います。特に、日本台湾交流協会で、『宮城からの報告』を見て、より一層意味があるでしょう。そして『宮城からの報告』を製作チームに心をこめて、感謝の気持ちも表せますから。http://www.miyagireport.org/

六月十六日(土曜日)晴れ。午前中、ちょっとした裁縫をして、傘生地で作った軽い袋のほころびを手で縫い直りました。五日間のクルーズの旅に、変わった自己流の便利な傘袋を使うつもりですから。午後、弟の家で昼食してから、国立博物館へ行って、「呂佛庭の禅意絵と文字絵」という講演会に出ました。スピーカーは台湾に有名な書道家の杜忠誥先生でした。日本語読書会の仲間の顔さんのお宅に掛けてある杜忠誥先生の書道を見たことがあるので、顔さんも誘って、一緒に杜忠誥先生の講演に出ました。私はずっと前から杜忠誥先生の名前を聞いたけれども、またお目にかかってなくて、顔さんは杜忠誥先生の書道の生徒でした。

二時間の講演で、杜忠誥先生はまず自分が書道の道を歩んで来たきっかけは呂佛庭先生のお蔭で、台中師範学校で先生と生徒の関係を始めて、呂佛庭先生が亡くされたまで、一生の親友だったと語りました。次に、禅について杜忠誥先生は解釈して、そして、呂佛庭先生の禅意絵と文字絵を詳しく紹介しました。最後に、「無法而法,由少而多,轉他法為我法,我法能忘而入化」の結論を出しました。芸術家は先ずスキルを学び、そして様々な先生に従って、自分のスタイルができて、最後は自由自在に心を表現する境界に辿り着きました。

質疑応答のコーナーで、杜忠誥先生は水墨画家・禅僧の雪舟(1420年~1506年)の名を上げました。私は始めて雪舟のことを知ってたのは日本語伝習読書会の林先生が教えている日本時代公学校の国語読本巻六の授業でした。雪舟は幼い頃近くの宝福寺に入りました。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担って、禅の修行を積むと共に、絵を学んで、水墨画は禅とともに起こった芸術です。描くことはまた、禅の修行でもありました。

雪舟は遣明船に乗って、中国(明)に渡って、宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きいです。呂佛庭先生(1911年~2005年)の水墨画を見れば見るほど、禅意たっぷりで、特に晩期の作品。自由自在にお水と墨を操って、禅意深い水墨画の構図ができて、とても綺麗でした。禅に修行したベジタリアンの呂佛庭先生は半僧と自分のことを呼んで、亡くされる前に、やっとご剃髪なさられて、完僧になれました。

六月十七日(日曜日)晴れ。午前中、三線をかなでる島唄を聞きながら、琉球王国について、勉強し始めました。琉球王国は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国で、当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称しました。最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治して、琉球列島(琉球弧)とも言いました。隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年(明萬曆37年、日本慶長14年)に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入りました。

琉球処分について、1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩(琉球王国の廃止)を設置し、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、1879年3月、処分官が武力的威圧のもとで首里城で廃藩置県を布達、琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、のちの1895年日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定しました。1972年5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたことを沖縄返還とも沖縄の復帰とも言います。

「島唄」首里城 詞曲:宮澤和史 
https://www.youtube.com/watch?v=w9iNGN-yhOc
でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
くり返す悲しみは 島渡る波のよう
ウ-ジの森であなたと出会い ウ-ジの下で千代にさよなら
島唄よ 風に乘り鳥と共に 海を渡れ 島唄よ 風に乘り届けておくれ 私の淚
でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ ささやかな幸せは うたかたの波の花
ウ-ジの森で歌った友よ ウ-ジの下で八千代の別れ
島唄よ 風に乘り鳥と共に 海を渡れ 島唄よ 風に乘り届けておくれ私の愛を
海よ宇宙よ神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を

沖縄の総面積は3,600平方メトル(台湾の十分の一),台湾より小さな沖縄が歴史、文化、音楽に恵まれた島です。那霸にある首里城と他の琉球文化遺跡が2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

毎年6月23日(慰霊の日)に沖縄県および沖縄県内の市町村の機関の休日で、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行なわれます。第二次世界大戦の沖縄戦は、1945年3月26日から始まり、沖縄諸島に上陸したアメリカとイギリス連合国軍と日本軍との間で行われた激しい戦いで、6月23日に終了、首里城やその城下の町並みが破壊されて、戦没者は20万人とされました。

午後、石垣島を勉強し始めました。石垣島は北緯24度20分04秒にて、私は今住んでいる新店と生まれれた嘉義(北緯23.5度)より南の方です。石垣は沖縄の那覇と410キロ離れて、逆に台湾とは概ね270キロしか離れておらず、地理的には日本のほとんどの地域よりも台湾に近い場所に位置しています。

日本の歌手である夏川りみは沖縄県石垣市出身、幼い頃から歌うのが好きで、将来は歌手になることを夢見ていました。2001年に発売した「涙そうそう」がじわじわとヒット、2002年に『第53回NHK紅白歌合戦』に同曲で初出場して、2006年10月には初の台湾(台湾台北國際会議中心)公演を行いました。「涙そうそう」に出会って、夏川は「やっと、自分らしさが分かって自信が出てきた」と語りました。三線は「涙そうそう」から弾き始めたが、今三線、琉笛、三板を演奏しながら歌います。

夏川りみ  涙そうそう 作詞:森山良子 作曲:BEGIN
https://www.youtube.com/watch?v=lqMbKU3BINM

古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔 想い出遠くあせても
おもかげ探して よみがえる日は 涙そうそう

一番星に祈る それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空 心いっぱいあなた探す
悲しみにも喜びにも おもうあの笑顔 あなたの場所から私が
見えたらきっといつか 会えると信じ 生きてゆく

晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔 想い出遠くあせても
さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう
会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう

夜、荷物を片付くより季節転換の服を整頓整理して、大掃除しました。着れないチャイナドレスも少し大きくして、白髪も染めて、大忙しいでした。

六月十八日(月曜日)晴れ。今日は端午の節句、「端午」は五月の最初の午の日を意味して、一年間に一番「陽気」な日です。午の時の12時に日本語読書会の仲間の顔さんにもらった粽を食べました。美味しかったです。

午後、近所にあるおしゃれなサロンでマニキュアとペディキュアして、手指も足指も綺麗になって、色は濃いピンク系、素敵です。クルーズ旅する前に、私はせざるえないのはマニキュアとペディキュアです。

夜、また荷物をし続けて、何を着るかなかなか決められない!気象予報によると、この一週間には雨の連続なので、水着を三着を持って、毎日プルと海水ジャクッジにひたして、雨降りを見ながら、雨降りをハミングで歌います。水曜の沖縄は雨ですが、幸い金曜の石垣は晴れです。クルーズ旅って、下船しなくてもいいですが、せっかくだから、傘とレインコートを持って、一安心です。

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